日本の大災害(火災)

むさしあぶみ


昭和27年に発刊された「東京災害史」(畑市次郎著)という貴書が手元にある。この書物をもとに江戸の「火災」について記してみたい。
火事と喧嘩は江戸の華という。東京災害史をひもとくと、本当に大火が多かったことに驚かされる。江戸時代を通じての大火と呼べるものは約100回を数えられる。なかでも江戸の三大大火災といえば、明暦三年(1657年)の振り袖火事、明和9年(1772年)の行人坂火事そして文化三年(1806年)の丙申の火事をいう。この三大火災のうちもっとも悲惨であったのが、明暦三年の振り袖火事である。上杉年譜によれば焼死者約3万7千人ということであるが、冬場で大吹雪になったため溺死や凍死者を含めると約11万人が犠牲になったというから、すさまじい。
火元は有名な本郷丸山の本妙寺だけでなく、3カ所といわれており、武家屋敷1200、寺社300、町屋120町が焼失し、江戸城も西の丸を除き本丸、二の丸、三の丸、天守閣が焼けた。江戸市中の6割が焼けたという。
むさしあぶみ」はその惨状を次のように伝えている。『昨日十八日の昼より焼け起こり・・(猛火は)十町二十町をへだてて、飛びこえ、燃え上がりけるほどに・・諸人にげまどいて、焔にこがされ、煙にむせび・・家々に火かかれば、すべきかたなく、・・人と馬とおしあい、もみあいたれば、これにふみころされ・・火しずまりて後つぶさにしるしつけたれば、およそ十万二千百余人とぞかきたりける。』
江戸城も焼けたため、将軍は正月恒例の増上寺参詣を中止した。保科正之は代参の帰途、至る所に焼けただれた死骸が積み重なっているのをみて、調査を命じたが、浅草あたりまでみな同じような状況と報告されたので、緊急に対応策を講じた。幕府は応急対策として救小屋を建て、2月初旬まで罹災者に粥を配給するとともに、16万両を銀に換えて江戸八百町の市民に下賜した。このほか、武家の救済として邸宅を消失した大名には一定の額を貸し付けた。旗本にも下賜金または拝借金を許したという。また、応急的に治安維持のために厳重な警備をし、流言と物価高騰を禁じるとともに、都市の復興として橋の仮修復、市街の改変に乗りだした。市街の改変の第一歩として新道を作っていったが、道幅を広げ、防火堤を築き、所々に空地と広小路を設けた。また、災害に備えて避難場所まで考慮したという。
このように各方面で大改造を行ったために、町屋の区域を広げなければならなくなり、小石川小日向、溜池などの築地や木挽町海岸の埋め立てなどを実施し、江戸は一層海面に進出することになった。いわゆる「大江戸」の規模は明暦の大火後に定まったといってもよい。
なお、火元の本妙寺の施餓鬼で焼いた振り袖が原因となったという因縁話がついて、振り袖火事といわれるようになったのは後の事である。
これから現代の東京でも大気が乾燥していくので火事が起きやすくなる。防火に一層留意して、無事、新年を迎えたいものである。
【引用文献】東京災害史(畑市次郎著、都政通信社発行、1952年)
【写真】東京消防庁(むさしあぶみ)