大正八年スペイン風邪

昭和27年に発刊された「東京災害史」(畑市次郎著)という貴書が手元にある。この書物をもとに「伝染病」の流行について記してみたい。
まず、伝染病が災害なのかという疑問があるだろう。国の災害対策基本法では、災害を「暴風、豪雨、豪雪、洪水、高潮、地震津波、噴火その他の異常な自然現象または、大規模は火事、爆発、放射性物質の大量放出、多数の者の避難を伴う船舶に沈没等の原因により生ずる被害」と定義している。従って、伝染病の流行は災害対策基本法でいう「災害」ではない。
にもかかわらず、江戸時代から赤痢などの疫病、麻疹、痘瘡、風邪、コレラ、ペストなどの打流行が72回も発生し、そのたびに多くの人が命を落としているのをみると災害と呼んでもおかしくない。なかでも、その3分の1が風邪であり、これは21世紀の現代でもまだ治しようのない「災害」といってもよいだろう。
1918年(大正7年)頃、スペインに始まった世界的なインフルエンザの大流行がわが国にも上陸し、その後3年間にわたり、感染者2千5百万人、死者38万人を出した。いわゆる「スペイン風邪」である。東京市では大正7年から8年にかけていったん治まったかに見えたが、大正8年に再び大流行し、死者約7500人を出した。翌年も大流行し、5千人を超える死者が発生したという。
東京災害史によると、『東京市民は連日生きた気がない程で、死者夥しく、・・・東京市中一時は焼場が混み合って大騒ぎをする』ほどであったという。このため東京府、警視庁は共同で次のような告諭を発し、東京市民に予防を呼びかけた。これは現在でもそのまま通用する。
1.室内は清潔に努め常に日光の射入並に空気の転換を図ること
2.身体衣服を清潔にし且つ被服寝具等は時々日光に曝すこと
3.衆人の集合する場所には成る可く立ち入らざること、もしやむを得ざる場合または電車汽車等の内にては呼吸保護器を使用し又は布片を以て鼻口を被うこと
4.外出先より帰宅し足るときは時々温水又は食塩水にてうがいをなすこと
5.患者又はその疑いある者に成る可く接近せざること
6.頭痛発熱等身体に異常を認めたる時は速に医師の治病を受けること
7.患者は成る可く別室に隔離し看護人の外は出入りせざること
8.患者の鼻汁喀痰及之に汚染したる物件並に患者の居室等は医師の指示を受け相当消毒すること
9.患者用の被服寝具器具類は之を区別し、食器は使用の都度煮沸し若くは之に熱湯を注ぐこと
10.医師に就き予防液の注射を受けること
今春に始まったSARSの感染に対し、香港では予防接種がはじまった。わが国でも厚生労働省が今冬のSARS予防対策をスタートさせた。今冬の予防がうまくいくことを願うばかりである。災害の歴史を見ていると、スペイン風邪が終息した3年後に関東大震災が起きたという社会混乱の継続性が見えてしまう。
【引用文献】東京災害史(畑市次郎著、都政通信社発行、1952年)