関東大震災

関東大震災

昭和27年に発刊された「東京災害史」(畑市次郎著)という貴書が手元にある。この書物からまもなく80周年を迎える関東大震災の猛火について記してみたい。
「筆舌に尽くしがたい」という言葉があるが、当時の新聞社にはかなり筆の立つ人がいたものと思われ、猛火に立ちすくむ人々や情景を眼前に展開してくれる。関東大震災における火災被害は134カ所の出火から始まった。引用してみたい。
「・・・陽漸く沈まんとする頃より猛火は山の手方面を残して殆ど全市を押し包み、黒煙天に沖し、折柄の旋風は倍々威力を加えて紅蓮の焔は縦に毒舌を閃かす。其の区域の広きと断水のため近衛と第一師団の軍隊も警視庁の消防も施すに術なく徒に奔命に疲るゝのみである。斯くて(中略)走り、喘ぎ、倒れ、傷き、溺るゝ間に四谷、神田、下谷、浅草方面を甜め尽くした猛火は本郷、千住、深川、日本橋、京橋、麹町、芝、赤坂方面に於いていよいよ暴威を逞くし、火元は遠く軽井沢方面より望み得るほどの強さとなった。最早人間の力ではこの暴虐に克てない、凡てを自然のなすがままに委するのみである。・・・」
死亡者の83%、行方不明者の90%、重傷者の62%はこの猛火によるものであった。物的被害も火災によるもの約55億万円、震害によるもの約1億円であったという。凄まじいまでの火災の恐ろしさであった。
ところが復旧は意外と早く、2日後には日銀が営業再開、3日後には山手方面の水道が復旧し、夜には電気も復旧した。6日後には東京市電が運転を再開し、1週間後までには破損した13の橋の修理が行われ、開通したという。当時、「危機管理」という言葉はなかったと思われるが、関係者が自らの「社会的使命」を自覚して、復旧・復興に全力を傾けている様が克明に描かれている。
今、東京で懸念されている東京直下地震では824件の出火と延焼棟数約38万棟が想定されているが、実はこの数字は関東大震災の焼失棟数約41万棟とあまり変わらないのである。特に、環状7号線沿線、中央線沿線のいわゆる木造住宅密集地域での延焼被害が大きいとされている点が心配である。
9月1日を前にして改めて東京における地震火災の恐ろしさを再確認しておきたい。
【参考文献】東京災害史(畑市次郎著、都政通信社発行、1952年)
【写真】東京消防庁