関東開国以来未曾有の大水

昭和27年に発刊された「東京災害史」(畑市次郎著)という貴書が手元にある。この書物をもとに江戸開府400年に当たる今年、江戸時代の大水害について記してみたい。
寛保2年(西暦1742年)は八代将軍吉宗が行った享保の改革の総仕上げともいうべき公事方御定書制定の年である。その年の旧暦8月1日から2日にかけて江戸の西側を大型台風がゆっくりと通過し、江戸市中は大暴風雨のため武家屋敷、町家などが壊れるなどの被害が出た。この台風とその前から降り続いていた大雨により利根川、荒川が氾濫し、江戸市中はもちろん広く関東一帯から信州あたりまでが大洪水となったという。「関東開国以来未曾有の大水」といわれた災害である。
「東京災害史」によると利根川の大水は滔々として江戸へ押しよせ、江東方面は忽ち水びたしとなり、大川筋も新大橋、永代橋が破損した。三日夜には・・・大水は小菅から本所、深川に侵入、四、五両日を絶頂として浅草、下谷から江東一帯は泥海と化してしまった。八日もまた大暴風雨で、本所や深川は再び増水し、神田川の出水は目白駒井町の埋樋を崩壊、大洗堰の土手も決壊して牛込に入り、音羽九丁目の上水堤も切れた。水戸邸から富坂下は二、三尺、小日向、江戸川などは五尺まで、いずれも床上に浸水した』という。
「続むさしあぶみ」には、飛鳥山から見渡したところ、川口岩淵方面は一面水で、川口の善光寺の屋根しか見えないと記されており、荒川筋の郡部地域も利根川地帯におとらず洪水の被害を受けた様が見て取れる。死者は数万ともいわれており、儒学者太宰春台も「本朝にて近世是ほどの死亡は多く有るまじくと存候。」と述べている。幕府は被災直後に江戸市中だけで延べ19万食の給食を行い、それに使用した白米は360万石(約54,000トン)にのぼった。他の地域とあわせると莫大なものであったであろう。
この水害には様々なエピソードが伝承されている。もっとも興味深いのは、幕府儒臣松崎尭臣が著書「窓の須佐美」のなかで、『近年・・・みずみち水道をかへ、古池を埋め、山をあらし、樹を伐りて、山々はげ山に成ぬ。かかることのつのりて江戸開しより以来聞もおよばぬ大水度々に及べり』と批判していることである。昭和27年の「東京災害史」でもカスリーン颱風などにおける自戒として紹介しているが、これはそのまま21世紀の今日の都市型水害についてもあてはまることである。国の中央防災会議が嘆く「生かされない教訓」のひとつであろう。
【引用文献】東京災害史(畑市次郎著、都政通信社発行、1952年)