東京主義と京都主義

東京大学の藤森教授が次の点を指摘している。

(1)東京主義
明治時代に入って、東京では大火(1回100棟以上焼失)が年々増加し、明治14年(1882年)には約2万棟も焼失している。この14年間で東京の中心部はほとんど燃えたといってよいほどである。このため明治政府はこの年、東京防火令を施行し、建築物の耐火・防火構造化に努めることになった。耐火構造化の試みは明治時代に入ってからすぐに着手されており、明治6年に銀座の赤レンガ化を進めたが、このためだけに当時の国家予算の6%も支出することになり、東京全体の赤レンガ化は断念したという。
東京防火令では路線防火と屋上制限(屋上を不燃化する)という方針がとられ、京橋、日本橋神田区の主要街路を防火路線に指定し、道路に面した家はレンガ造り、石造り、土蔵造りのいずれかで建築することになり、結果として黒漆喰の土蔵造りの家がもっとも広まった。これを契機に東京の景色は一変していったようである。
この法律の期限内に実施できなかった建築物については5年間の延長が認められたが、延長する際には立て替え費用の積み立てが強制されたという。今の政府と違い明治政府のえらかったところは、この立て替え費用の積み立て金に高利を付けてあげたところである。この措置により、積み立てをする人が急増し、路線防火と屋上制限が急速に促進した。
東京では1923年の関東大震災と戦災をのぞき、明治25年(1893年)を最後に大火は発生していない。

(2)京都主義
1708年、京都は宝永の大火に見舞われ、多くの屋敷や町家を焼失した。その後、1788年に有名な「天明の大火」が起きた。
この大火は全市の90%を焼き尽くすほどの猛威を振るった。御所と公家・武家屋敷、寺社を含め、焼失家屋は37000軒に及び町のほとんどが灰燼に帰した。秀吉時代から100年も費やして築き上げられた京都は再び甚大な打撃を被った。
しかし火災による破壊が、城下町が孕んだ問題を一掃し、1000年を迎える京都の若返りの秘薬となった。
大火後の京都は、次世代都市へと脱皮する好機と見て、幕府と朝廷、富を蓄えた町衆によって、思い切った都市計画が実行された。明治時代になってからこのインフラを基盤に大火は発生していないが、その陰には東京とは異なる防火の仕組みがあった。
京都では、戦乱の間、権力者は誰も町や民衆を守ってくれなかったため、京の町民は自ら団結し、足軽兵士・土一揆農民などの外部の敵から町を防衛する必要があった。町組(町の集合体)はこうした町を防衛する仕組みである。
この町組を形成・自治運営(方策を練り、ルールを作る)し、町中に堀や柵をめぐらせて自衛・武装し、家が焼かれれば火災対策を考え建て直していた。こうしてハードだけでなくソフト対策の両面から大火に対する防衛体制をつくり上げ、京都の町を守ってきたのである。この「自治独立」とも言うべき京都主義が京都を根底から支えるエネルギーとなる。
東京とは異なる大火対策の取組みである。