金輪際


作歌のヒント」という短歌を詠むための本を読んでいます。 そのなかに、俗語を効果的に使うと良いというヒントがあり、例として次の歌が紹介されていました。

 「金輪際 なくなれる子を 声かぎり この世のものの 呼びにけるかな(木下利玄 作)」

 子が急病でなくなる際に、子が世界の涯に行ってしまう思いと、もう金輪際会えないという気持ち、それが重なりあうからこそ、妻が声を限りに叫んでも「この世のものの」呼びかけは金輪の向こうに行ってしまうわが子には伝わらない、という壮絶な想いを詠んだものです。

 作歌のヒントでは、俗語である「金輪際」を効果的に使っているとしていますが、私にはそうは思えませんでした。仏教の「金輪」の意味を知らないと分からない歌だと感じました。

 それが分かると、息子がなくなってしばらくは、浄土にいると云われても、どうしてもつらい思いをしているのではとの思いがぬぐい去れなかったわけも分かりました。

 仏教では、この世界は、虚空にあり、一番下が風輪、その上が水輪、そしてその上に金輪がのって、三輪で形作られているとしています。私たちが住んでいるのは金輪の表面、そして金輪と水輪の境、つまり地の底の底を「金輪際」というそうです。

 こう聞くと、つまり「地獄」のことかと思ってしまいます。親鸞聖人がいわれる「地獄は一定(いちじょう)すみかぞかし」の「地獄」と同じような意味といってもいいかもしれません。

 やはり、はじめは地獄に行くのかと思うと、私もはじめは地獄にいましたから、妙に納得してしまいます。特に子を産んだ母親は、子がかわいそうだ、つらい思いをさせていると嘆き、悲しみ、叫ぶのではありますまいか。水輪というのは海のことといわれていますが、母親の胎内ではないか。

 浄土真宗の僧侶が「この地獄より下はない。地獄の底に堕ちてしまえば、そこが安心の大地なのだよ」といっています。地獄の下に天国(浄土)がある、とでもいいましょうか。

 一度可哀想に地の底に落ちて、そこから天国に行くという方が納得できる気がしますが、金輪際、子が先に逝く悲劇だけは味わいたくありません