リスクベースのLCC研究の課題

vinykiki2006-02-06


1.経年劣化と事故・災害の発生の関係
ISOが2002年、ISO/IEC Guide73 “Risk management—Vocabulary—Guidelines for use in standards”を公表した。この国際規格はリスクマネジメントに関する規格を制定する際に使用すべきリスク関連用語を定義したものである。この規格で定義したリスクの概念は非常に広い。リスクを不確実なものだけでなく、確実に発生するものも対象とした点も特徴のひとつである。地震の発生は不確実であるが、経年劣化は確実に進行する。この経年劣化という事象もリスクの要素であるとしたのである。

この定義は機械設備のように経年劣化が重大な事故や災害を引き起こす主要因になる場合には抵抗感が少ないだろう。しかし、建築物でも同じことが言えるのであろうか。
このあたりを探るためにひとつの例として、東京都内の分譲マンション管理組合が経験する事故や災害に関するアンケート調査[1]の分析結果を紹介する。いずれも複数回答の合計なので累計割合は100%を超えている。

「共用部分の建物・設備面で困っていること」をマンションの完成年次別に見ると、困ったことのほとんどが建築物の経年劣化に伴う事象であり、古いマンションほど発生頻度が全体として高いことが分かる。個々の項目についてはばらつきがあるが、その総計は建築年数に比例して大きくなっており、マンションの建築年数と劣化に係る事象の発生頻度に相関関係があると言ってもよいだろう。

一方、経年劣化と事故や災害の発生との関係はどうであろうか。
機械分野では原子力施設の配管についてリスク援用(Risk-Informed)評価技術が開発され、適用分野も拡大してきているが、興味深い点は配管の損傷発生率を配管の劣化程度で代表させている点にある。つまり、配管の損傷発生と劣化の程度に正の相関があるとしているのである。リスク援用評価技術は、はじめに米国機械学会(ASME)がCode Case N-577として公表したものである。正の相関は配管損傷の特殊性として確認されているものの、複数のリスク(マルチリスク)を評価する際の考え方としてはいいところに目をつけたものである。

建物の経年劣化と事故・災害の発生の関係について先のアンケート調査[1]結果における「共用部分について経験したことがある事故や災害」を完成年次別に見ると、全体的に古いマンションほど事故や災害に遭っており、経年劣化と事故災害の発生に関係があると見ることができる。事故・災害にあったマンションの数が少ないが、ひとつの結果ではある。新たにリスクが定義された今日、建築物についてこのあたりを一度整理してみる必要があるだろう。

2.リスクベースのLCC分析へ向けて
建築物のマルチリスクを評価する際に持ち出されるのがリスクコストである。リスクコストは大きく2つに分けられる。
ひとつは地震や台風等に対する防災投資、経年劣化に係る対策コスト、損害保険料などの合計である。これを投資コストと呼ぶ。2つ目は投資にもかかわらず、建築物の事故・災害などにより所有者・管理者が負担する損失コストである。この損失コストには通常、経年劣化に伴う修繕費は含まれていない。建築物の所有者・管理者はこの損失コストと投資コストの両方を負担するが、その最適化について図のような考え方が以前から提唱されていた[2]。図のように損失コスト(グラフA)と投資コスト(グラフB)はトレードオフの関係にあるので、総コストはL(=A+B)のグラフになる。

この考え方は、総コストが最も低くなる(M点)ような投資コストA’を選ぶのが最適であるというものであるが、逆に損失という観点からみればA’’の損失を許容するということである。

しかし損失コストは通常、建物又は収容品等の物的損失、休業による損失、傷害のコスト、死亡のコストなどに分けられ、人の死傷のコストが含まれる点に留意してほしい。

わが国では人命をコストに換算することにかなり根強い抵抗がある。「人命第一」という考え方が社会的に認められており、すべてをコストで割り切ろうとすると、安全に対する理念が社会的な批判を受けることがある。例えば、投資額が1億円の時には損失額は2千万円だが、投資額を半分の5千万円にすると損失額が2倍の4千万円になる場合、総コストは後者の方が低い。この損失額の差が人の命であった場合に9千万円の総コストのリスク管理は現在の日本社会では受容されないだろう。リスクの社会的受容性(social acceptability)に対する配慮が必要である。これが投資と損失の最適化だけでリスクコストを考える際の現代日本社会の課題である。

それではこれをライフサイクルコスト(LCC)から見たらどうなるであろうか。
建物のLCCには様々な考え方がある。その一例として損失コストCaを含めたものを示すとLCCは期待値として通常、次のように表わされる。ここには投資と損失の最適化という考え方は見られない。

E(Ct) = Ci + Cd + Cm + Cs + E(Ca)
Ci:初期建設費用、Cd:運用費用(光熱費等)、Cm:維持管理費用、Cs:解体費用、Ca:損失コスト

この考え方におけるリスク技術上の課題をまとめてみたい。

①損失コストの把握
損失コストの期待値E(Ca)は通常、予想損失額と発生確率の積で表されるが、これは損失をもたらす事象が確率事象であることを暗黙の前提としている。そうなると損失の期待値は損害保険のリスクに相当する掛け金、つまり「純保険料」に相当するものとなる。
つまり、もし確率事象による損失のすべてを補償する保険があるとすれば、この損失の期待値E(Ca)は保険料として運用費用Cdに含むべきものとなり、建築物の所有者・管理者が実際に負担する損失コストは0となり、LCCはほぼ一定の額になる。
実はこのコストの平準化こそが保険の経済的な効用なのである。しかし損害保険は原則的に補償の対象を不測かつ突発的な事象に限定しており、事故や災害によって建築物に発生する損失の一部を経費化するのが社会的な役割である。
このように保険などリスク移転の仕組みの適用如何によってLCC自体の構造が変わるので、純粋技術的に損失コストの期待値を計算することにコスト論上の意味はない。LCC分析では保険などリスク移転の仕組みを考慮して、負担すべきコストを把握することが必要であろう。

②マルチリスクの評価指標の開発
上記の算式では、ISOの新たなリスク定義に含まれる経年劣化のような「確定的」リスクなど確率現象ではないリスクによる費用は維持管理費用Cmに算入しているが、先に見たように経年劣化と事故・災害はまったく無関係とは言い難い。また、経年劣化に伴う修繕費は予防保全的意味もあるが、災害によるものと同じく建物の所有者にとっては損失であり、そう把握したい。そのためにはメンテナンス・リスクや事故・災害のリスクなどをマルチリスクとして同じベースで扱うことが必要である。先に述べたリスク援用評価手法のように経年劣化度が使えればベストであるが、建築においては地盤、地域特性、工法、法規制などの様々な要因が影響しており、直感的にも経年劣化度だけでは共通の指標たり得ないと思われる。リスクの種類によらない統一的なリスク評価指標とデータベースの開発が必要である。

200年夏、原子力分野で事後保全が導入された。建築分野でも以上のようなリスク技術上の課題を解決していくことを通じてリスクベースのLCC研究の発展が求められるだろう。コスト把握は必ずコスト削減につながり、その際には損失コストまで含めたLCCを考えるのが時代の要請である。

参考文献
[1](財)東京都防災・建築まちづくりセンター,「分譲マンションの維持・管理に関する支援制度の調査検討報告書」,2000
[2]中村裕幸,「建築における防火設備コストの分析」,建築設備と配管工事,1985